昭和40年01月01日 夜の御理解



 元旦祭を終わって、ひときりのお取次ぎを、ひときりのお取次ぎをさせて頂いてから、親教会に年始のご挨拶にやらせて頂いた。丁度、福岡の杉山さんが、車で行き戻り送って下さった。最近買われたばかりのデラックスな自家用車で送ってもらいました。私、ああいう車に初めて乗らせてもらいました。中の設備といい、乗った感じといい、なるほどこれじゃあ福岡の方達が、信心のまだ薄い人たちが、あの車に乗せて行ってくれるならお参りしようと言うて、と今日、光男(さんが笑って話しておりましたが。
 実にそのデラックスな感じですね。ところがです、その人間て不思議なもんです。ああいう豪華な、いわゆるデラックスな車に乗らせて頂いておると、ついこう自分の車でもないのにふんぞりかえってみたいような気がするですね。中にはもうそれこそ、あんなのも初めて見ましたけれども、何かこう乗っただけでふわっとするような、いろんな、あの自動車の中に設備がしてございます。ね。ここに私は「慢心が大けがのもと」と仰るような元が潜んでおると思うんです。
 たとえば、ここの場合でも、年々歳々、さっきも長男と話したことですけれども、本当に、有り難いことじゃと。もう本当に今度の元旦祭が一番有り難かったと。というて皆さんが言われる。それがもう毎年そうなんだと。大祭を奉仕してもそうである。今度のような感激的な大祭はなかったと。たとえば、迎える大祭たんべんに、迎える、いわば元旦祭たんべんに、そう言われるということは、やはり一分ずつでも一厘ずつでも、信心もさることですけれども、おかげのほうが進んでおるということを感じる。
 今、私、御祈念にかかる前に、ちょっとお届け帳を見らせて頂いたんですけれども、お届け帳についとるだけでも、六百何十名ついとります。お届けがあっておるだけでも、ね。 つい自分の信心でもないのに、いわば、ふんぞりかえってみるような気持ちが、人間の心の中に誰れしも、私は、潜んでおりゃせんかと。そこを私は慎ませてもらうというか、本気でそういう時こそ、警戒させてもらうというか、そういう信心がいよいよ必要であるということですね。
 私がどんなにおかげを頂きましても、それは三度の食事を、四度いただいても良いようなおかげを頂いとりましても、椛目の家族、修行する者、必ず日に二度の食事ぞと。は。しかも一回は麦のごはん。一回は麦のかゆ食です。どうしてこれだけ沢山お米があるとに、いつまででも麦ごはん食べんならんだろか。どうして必ず晩だけは麦のお粥食べんならんだろか。と私は思わずに、そういう私のです気持ちを皆がひとつ分かってもらわんにゃならんと思う。
 どの部屋に入りましても、ストーブが入れてございます。でなかったら、こたつが入れてあります。ね。本当に豪華なことです。神様はそういうおかげを確かに下さっておるのです。ですからそのぬくぬくとしたたとえば部屋で、こたつの中でです、いわゆる私が今日光男さんの車の中でふっとこう感じたようなです、ふんぞりかえったような気持ち。最近は子供たちの部屋にこたつが入っただけではなくて、電蓄の中古ではありますけれども、それこそデラックスな電蓄のお供えを頂いております。
 こちらではテレビを見ておる。こちらではレコードをかけて楽しんでおる。ね。それがです例えばここで信心の稽古をなさる方達の、たとえば少しでも邪魔にでもなるようなことになったら、私は大変なことだと思うのです。ね。夢々お互いがですね、ふんぞりかえった気持ちにでもならんように、自分たちの信心でばし出来ておるような思いにならんように、そこのところを私は気付かしてもらわなければならん。
 先程、夕食させてもらう時に、正義さんと、久富繁雄さんが、二人残っておられましたから、「この酒はよかろう。この御神酒は、どげな酒と思うか」と言ったら、「こりゃまあとにかくいいお酒だ」と皆言う。もう椛目の酒は、特級酒かと思うとった。あれだけ特級酒ば頂くものだから。家内に私は言いつけときました。先生方に、私は、お歳暮さしあげたのは特級酒です。
 「まあ正月だけぐらい、特級酒で、ひとつまあご直会して下さい、頂いて下さいと言って。自分の周囲のお使い物にいたしましたのは、みんな一級酒以上のものばっかりでした。家内に申しました。「二級酒のあるかぎり、ね、この正月から、うちは二級酒ぞ」と。「これは二級酒なんですよ」ち言うてから、今日夕方、頂いたことで御座いました。だから、何故そういうことをせねばならんのかと。
 始末倹約という意味ではないです。私共、ささやかながらでも、そういう思い上がったことに、思いがいたっちゃあならん。最高の物ばかりで、最高の、いわば、雰囲気というものがです、ね、ただ、なんと勿体ないことであろうか、有り難いことであろうかということだけならよいのですけれども、それが、ね、もう偉かつなったごたる、ふんぞりかえった気持ちにでもなったら、大けがのもとであることを、私は、警戒し、または慎んでおる気持ちの現れなのです。
ね。これは皆さんがおかげを受けられて、段々より良いおかげを頂いていかなければ、お恵みに触れなければなりません。無尽蔵のおかげ、お徳に触れていかなければなりません。そして、そのおかげを落とさんで済むおかげの頂くためにもです、いつもこう、下り坂になったら、本気でぴしっとこう、ブレーキをかけていくような気持ちが必要じゃないでしょうかね。おかげ頂かなければいけません。